日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

現象学の意味とはあまりに数学化されたヨーロッパの学問から体験的統一性を取り戻すことにあった ~フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

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前回のお話

懐疑主義のエポケー/思考停止を用いる現代的な哲学である現象学とは - 日々是〆〆吟味

 

 

現象学とヨーロッパの学問の数学化と失われる統一的人間観

 現象学の問題意識

フッサールが体験そのものを学問の基礎に据えようとして現象学というものを構築しようとしたのですが、なぜこのような風変わりとも思えるような哲学を必要としたのでしょうか。

 

それはヨーロッパの学問が全域に渡って数学化されているからだというのでした。

 

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フッサールはもともと数学研究者だったそうです。だから最初の方の著作は『算術の哲学』とか『論理学研究』というもので、あんまり哲学自体とは関係なさそうなタイトルです(読んでないからわからないけど、全然違ったらどうしよう)。

 

【フッサール『論理学研究』】 

(本はこちら。私は読んでませんので何も言えません)

 

ヨーロッパの学問と数学化

しかし数学研究者だったからでしょうか。フッサールはヨーロッパの学問があらゆるところで数学化されていることを見てとり、本来数学化してはいけないであろう領域にまで学問によって数学化されていると判断したそうです。そしてこれこそが現代の危機として克服しようと新たな哲学の樹立へと向かったそうです。

 

【フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』】 

(フッサールがいかにヨーロッパの学問が数学化されており、人間の統一的な把握が忘却されているかの危機意識を持ちながら現象学を考えた本です。読むととても面白く、なるほどぉ、と思わせてくれるのですが、難しいのでちっともわかりません。ははは…)

 

たしかにヨーロッパの学問の筆頭である科学は基本的に数学化されたもののみを扱うといっても間違いではないかもしれません(多分。私にはそんなこと判断できる能力はない)。しかしそれは人間とか社会とかも数学化したもののみを価値として扱うことを意味します。

 

人間が数字化されて物扱いになっていく

たとえばマルクスが無茶苦茶怒ったもののひとつは人間の労働力化でした(だったと思う)。どういうことかといえば、人間というものは一種神秘性を帯びた配慮を必要とする不可侵領域でもある存在でした。つまり私とあなたは同じ人間であるがゆえにお互いに自分と同じように配慮し合う間柄、という前提が無自覚に置かれているわけです。しかし資本主義によって人間が労働力としてみなされるようになると、時間給いくらで雇える無個性の労働者に成り下がってしまったわけです。これはつまり重要な人間存在の在り方を、時間給という数字によってばらけさせてしまったようなものです。

 

【マルクス『経済学批判』】 

(マルクスがそのあたりを説明してくれていたのはこの本だったかと思います。内容の大半はもう忘れてしまいました)

 

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そしてヨーロッパの学問=科学が数学化したものしか取り扱わないとしたら、人間は労働力としてしか扱ってもなんの問題はありません。労働力は時間給というものによって数学化して置き換えることが可能だからです。そのため経済学は社会科学の中で最も発展しました。しかしそれは人間存在の一部を切り取って扱えるようにしたに過ぎません。けれども科学の絶対的な力によってあたかもそれが人間のすべてであるかのように扱われてしまいます。

 

部品の集まりとしての人間観

また科学が数学化されたものしか扱えないのであれば、人間存在を一種神秘的な存在として扱うことなどそもそも不可能です。人間を人間として配慮を持って扱うようなことは数学的学問においては視野の外です。たとえば人体においても分解して理解し、病気も細分化して原因を突き止めるような真似をするのはこうした数学的理解の延長上にあります。しかしそれでは人体そのものを扱うことになりません。扱えるのは分解した人体の部品である臓器や骨格だけになってしまいます。

 

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ヨーロッパの学問=数学的世界はのべつまくなしこうなってしまいます。数学化され、分解してしか理解されないのです。そこにあるものをそこにあるままの形で捉えて理解しようということがとても困難になっているのが現代の学問的状況と、フッサール先生は考えたようです。

 

そしてこうした数学的分解が行われる前の、一種神秘的な統一された状態のものを目の前にあるがまま捉え、分析していくための方法として人間の体験を持ち出し、それを通して数学化されない学問の在り方を探っていこうとしたらしいのでした。

 

なんとも難しい話ですね。

 

追記

【フッサール『デカルト的省察』】
デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

 

 (ブックマークのコメントに、客観的世界の描出をあきらめたからでは、とありましたので一応つけたして書いておきますと、フッサールは体験的世界を学の基礎として定めたため客観的世界を無視した独我論の一種だ、という批判を受けたらしく、どのように客観的世界を構成出来るのか、ということをこの本の中で考えています。私は読んでもよくわからないのですが、それぞれの人間が体験を持つ中で、お互いに共通して持てる体験を間主観として客観性とみなす考え方のようです。人間が客観的世界を捉えられるのかどうかは難しい問題で私には答えられませんが、少なくともフッサールはその問題を現象学の立場から答えようとしたようです。

またアンチ科学がどのような意味で言われているのかはわかりませんが、科学はカントの理性の限界を自覚するところに基礎づけされた側面がありまして、理性=積極的な思考能力は経験に根差したものしか確かなものとしてしかわからずそれを超えたものはどうとでも言える、そのため物というものは人間に感覚=経験的に理解できる物の現象のみ知ることができ、物の本質である物自体は知ることができない、そのため科学は物の現象面に限られて探究される学の営みである、という側面がありまして、いわば机を素材である檜とか大理石とかは科学的に理解するけど、机そのものは科学的に探究することが出来ないわけですね。ですから科学は限定された領域を扱うのであり、また限定するからこそその範囲においては必ず正しいことになるのです。それを乗り越えようとカント以降の哲学は考えたようですが、どうも神秘主義と似たような直観に根差すものが多かったらしく、フッサールはそれを体験というものによって乗り越えようとしたのかもしれません。

あんまり私もよくわかってませんし、難しいので、よければフッサール先生から直接教わってくださると嬉しいです)

 

追記 

「数学化」してはいけない領域はないのだけど - Living, Loving, Thinking, Again

言及して私の間違いを指摘してくださいました。いい加減な内容でごめんなさいね。ちょっとした古典への読書案内みたいなつもりで書いていますので、あまり大したことわかってないんです。直接手にとってページでもめくってみようかと思ってもらえればいいな、というつもりで面白おかしく書こうとしていますので、ちゃんと理解している人からすれば頓珍漢で恥ずかしい代物かもしれません。一応前後何回かに分けてお話を書いているのですが、きっと不十分かと思います。でもこうして説明してくださる方がいますと、こちらで目にした人もあなたの書いてくださったものも読む機会があるので、きっと私の間違いも見直してくれるでしょう。その誘いくらいにはなれたかもしれません。是非私の文章を読んだ方は、リンク先の文章も読んでみてくださいね。

ご批判ありがとうございました。

 

次回のお話

現象学が基礎づけようとした、体験を意味づけすることにより新しい学問的基礎を築いた哲学 - 日々是〆〆吟味

 

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お話その276(No.0276)