日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

アイデンティティとはその意味をわかりやすく簡単に言うならば人間の精神をまとめあげる機能である ~種々雑多な意味ある情報を〝この私〟によってばらけないようにまとめる精神機能

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前回のお話 

事実とは異なる意味の現れ方:事実を超えて仮定される意味概念 ~人間の精神の事実からなるメカニズムと、あたかも本当にあるかのような〝私は私〟に対する想像力 - 日々是〆〆吟味

 

 

 アイデンティティとはその意味をわかりやすく簡単に言うならば人間の精神をまとめあげる機能である ~種々雑多な意味ある情報を〝この私〟によってばらけないようにまとめる精神機能

幼児期と社会 1

幼児期と社会 1

 

エリクソンのアイデンティティ

なぜ私のオリジナリティやアイデンティティのようなものが一種のフィクションとして、しかし絶対に必要なものとしてあるのでしょうか。ちよっとまた寄り道してエリクソンという人の本を思い出しながら書いてみたいと思います(最近全然本を参照しながら書いてません。申し訳ない。本がどこいったかもわからん)。

 

エリクソンという人は精神分析の人なのですが、この人がかの有名なアイデンティティという考え方を唱えました(生み出したのか広めたのか、どっちだったか自信がない)。なんというか、アイデンティティなんて当たり前に使いまくっている言葉なので、改めてそうした考え方を生み出した人がいるというと、ちょっと驚いたりもしてしまいます。でもそりゃそういう人がいて当たり前ですものね。

 

【エリクソン『幼児期と社会』】 

(私が読んだのはこの本なのですが、アイデンティティを取り扱ったものは他にもあります。単に私が読んだことがあるのがこの本なのでこの本からしかお話出来ませんが、結構アイデンティティというものも一般に知られているものとは違うものだな、と思った覚えがあります。私の書くものは本書と間違いなくあっているとは言えませんので、興味あったらどこかで手にとってみてくださいね)

 

アイデンティティって確固たる〝私〟のことなの?

アイデンティティというと、なんだか〝私は私〟というような、なにやら強い自己みたいなものをイメージしてしまいます(私だけ?)。ブレない自分、とか、自分色の私、なんてキャッチフレーズと結びつきそうなイメージがあって、なにやら他人に左右されないことが大事で価値があるように思われそうです。

 

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しかしこの本を読んでいるとそんな〝私〟像とは全然違う説明ばかりが出てきます(多分。そういうところしか覚えてないからかもしれないけど)。

 

精神に入ってくる雑多なもの

たとえば人間の知覚はあらゆるものから情報を取り込むと言います。そしてそれは人間の精神に一挙にバラバラなものとして入ってくるとも言います。なんだかこの説明を見ると、イギリス経験論のロック先生のようでもあります。人間の精神は外から色々なものを取り入れて物事を認識する、その心理学版か精神分析版のようにも感じられそうな気もしてきますね。

 

【ロック『人間悟性論』】 

(この本は300年も前のものです。それが今の考えと似てたりするっていうのは結構面白い気がしてきますね)

 

そしてエリクソン先生は、そうした雑多な情報が人間の精神の中に入ってきてしまうと、それだけでは精神は大混乱をきたすと考えます。AとBという情報が矛盾しながら自分の精神の中に一挙に現れることになり、それが無数に存在するというわけです。そのためこうした情報をとりあえず整理する必要があります。

 

雑多な情報を整理するものとしてのアイデンティティという機能

そしてこの整理する能力がアイデンティティだ、というわけです。どういうことかというと、そうして精神に入ってきた種々雑多情報を〝この私〟に取り入れた情報である、と捉えることで、自分自身の観点から整理することが可能になる、というわけです。いわば精神というものが風呂敷だとして、種々雑多なものがその中に入り込んでいる。それは人間の知覚作用や認識能力から勝手に入ってくる。それが広げられた風呂敷のままだとてんでばらばらになってしまう。そのため風呂敷を包んで丸める。その時きゅっと結んだ結び目こそがアイデンティティみたいなもんである。とこういう印象を私は持ちました。

  

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(いい風呂敷のがフリー画像がなかった…) 

 

なんで結び目のようなものなのでしょう。それはエリクソン先生は精神分析家ですので精神病を扱います。そしていわばこの結び目が解けてしまった状態、精神がその中身をまとめて捉えることが出来なくなってしまい広がった風呂敷の上に無数に精神の中身がまとまることなく散らかされてしまった状態、これを精神病というように捉えているような気もします(あってるか自信ないけど…)。そのためこうした精神がばらけてしまった状態=精神病を避けるための人間の精神がもつ基本的な能力として、精神をまとめあげておく結び目=アイデンティティというものがある、ということなのかなぁ、と思ったりしたのでした。

 

カントの自我=統覚作用と似ている?

しかしさらに後になって考えてみたりしますと、これはカントのいう統覚作用(だったかな?)と似ているような気もしてきました。というのもカントの哲学はイギリス経験論と大陸合理論というものの組み合わせかつ乗り越えたものとしてある側面もありまして、イギリス経験論の持つ精神が外から情報を与えられる、という働きを踏まえてたくさんのことを書いているからです(そして私はよくわかんない)。

 

【カント『純粋理性批判』】 

(カントのこの本は、近代哲学史上おそらく最高の哲学です)

 

カントもまた知覚(であってたんだろうか)によって様々な観念を持つと言うのですが、それは常に入り続けているようなもので観念同士の関係性もない(う〜ん、こんな説明だったかなぁ…)、それを秩序ある形で捉えるために自我という統覚作用というものがある、と説明していたような気がします(多分。もっともっと自信ない。よかったらカント読んでみてね)。

 

カントにおいては自我というものが人間の精神に入ってきた情報を制御するための重要な機能だったわけですね(あくまで多分だけど…)。それをエリクソンの場合はアイデンティティとして精神病との関わりで概念化したのかもしれません。なんだか哲学と精神分析(もしくは心理学)とが似たようなことを考えているようで面白く感じたりもしますね。でも考えようとしている対象が同じですから、案外出てくる答えも似たようなものになってくるのかもしれません。ダライ・ラマは仏教の教えは最新の脳科学と重なる、なんて言ってたと新聞記事で読んだ覚えがありますが、それも同じものを捉えて分析しているからなのかもしれませんね。

 

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なんだか今回はちょっと無理をした内容になってしまったような気がします。あまり信じずに話半分で読んでおいてください。そしてどこかで正しい知識と出会いましたら、ふとあってた間違ってたなんて思い出してくだされば幸いです。

 

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 お話その238(No.0238)