日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

オリジナリティの意味する偶然的結果としての〝この私〟と必然的人生としての宿命 ~決して一致しない個々の人間精神を越える唯一の存在として認識してみなされる〝この私〟

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前回のお話 

オリジナリティは何か、という同じ精神の形成過程をへる個人としての問題 ~みんな同じ人間精神のメカニズムと具体的な個別性 - 日々是〆〆吟味

 

オリジナリティの意味する偶然的結果としての〝この私〟と必然的人生としての宿命 ~決して一致しない個々の人間精神を越える唯一の存在として認識してみなされる〝この私〟

個人というもののオリジナリティ

人間の精神がグラスにそそがれたコーラのように外から与えられるのだとすれば、〝この私〟の起源はすべて自分以外の外部に求められてしまうようにも思えました。となるとこの私の個人やアイデンティティやオリジナリティなんてものはどこに定められるのでしょうか。なんか言われてみるとどこになるのかわからなくなってくる気もしますね。

 

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【エリクソン『自我同一性』】 

(アイデンティティという考え方は、実は結構新しくてエリクソンという人が明確にしたようです。この本の中にはそのものずばりのことが書いてあるかと思いますが、私はまだ読んでいません。エリクソンは他の本を一冊読んだのですが、アイデンティティというものがどうも思っていたものとちょっと違うぞ、というような印象を持ちました。なんというか、私の証明、というようなものではなく、私の精神を包んでいる風呂敷包みの結び目みたいなもんだな、と思ったのですが…後になって他のものを読んだりしてみると、カントのいう自我の統覚作用というようなものと似てるような気もしましたが、困ったことにどっちも難しくてよくわかっていないのでした。ははは…興味あればAmazonの説明でも読んでみてください)

 

決して一致しないと思われる個々の人間精神

しかしこれは案外簡単な問題でもあるのかもしれません。グラスがひとつひとつ別にわかれていて、中身が混ざりあったりしない。またひとつのグラスの中身もあちこちからそそがれるものがあって混ざり合ってしまっている。そうなると無数に存在するグラスとその中身も一致することはありえないことになります。となれば必然的にそこにあるグラス(=人間/個人)の中身は唯一のものになります。

 

唯一の存在としてのこの私

ただそれだけではどうも人間は満足しないかもしれません。そうではなく唯一絶対なものとしてこの私を定めてしまいたい、というわけです。これは有名になりたいとか特別になりたいという欲望とも結びついたもので、現代社会ではマスメディアを通じて頻繁にメッセージを与えられもしますので抜き差し難い感情として私たちの意識を束縛しているかもしれませんね。

  

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その問題は問題として(簡単に言うと差異化ってことなんでしょうけど)、具体的な個人としての唯一性というものは上に述べたものでさほど間違っていないのかもしれません(いえ、私が知らないだけでもっといい考え方があるのかもしれませんけど)。となるとこうした考え方でどうやって唯一性なんてものを考えてみたらいいのでしょうか。

 

【ロラン・バルト『モードの体系』】 

(この私を特別なものとする技法としてファッションがあるかと思いますが、その記号的体系の分析をしたのがこの本です。ただ私は読めていません。しかし現代社会で人間や個人が特別になるということは、ここで分析されたものをどこかで活用されているのではないかと思います。そう考えますと現代人の特別さというのは結構ちんけなものなのかもしれません。そう捉えてばかりなのも厭世的にしかならないのかもしれませんけども…)

 

外から与えられ出来あがった〝この私〟という存在

とりあえず人間の精神は外から与えられるものによって作られている、と仮定して(イギリス経験論みたいな考え方としておきます)、なら人間みんな同じようにそうなるんだからそれぞれの個人は大差ない、とまた仮定してみます。個人個人によって得ている精神はそうした外のものから作り上げられている、と考えられます。となるとこの私のオリジナリティは外から与えられたものに規定されているのかもしれず、それのどこが本当のオリジナリティになるのかわかりません。

 

偶然の産物としてのこの私

つまりそうして出来上がった〝この私〟という具体性はある種の偶然の産物ということになります。それがオリジナリティあるものであるのかどうかは、これまた単なる偶然ということかもしれません。ある人がとても優れていて、私はお間抜けでしかないかもしれませんが、それはその人と私との間にある人生航路の偶然の差というわけになります。

 

ですがこうした考え方には問題があります。というのも人生の結果が偶然でしかないのであれば、努力など必要ないからです。ただ人生に身を任せていけばいいことになります。いわばこれは運命論の考え方に立つわけですね。つまり自分がどんな存在になるのかは自分ではどうすることも出来ない、というわけです。

 

【ディドロ『運命論者ジャックとその主人』】 

(これも読んでないんですが、運命論なんて書いたので思い出し載せてました。作者のディドロは啓蒙主義時代の百科全書派の哲学者です。ディドロの本は岩波文庫で何冊か読んだはずなのですが、何も覚えていません。困ったもんです)

 

多分事実としてはその通りなのですが、そのままその通りに受け取ることは問題です。というのも殺人事件でも起こしてみて、それは私の人生の偶然からの結果でしかない、というのでは困ってしまいます。成功者が自分がうまくいったのは運がよかったからです、なんて言うのは謙遜しているみたいでよさげな印象を持ちそうですが、犯罪者が言うと逃げ口上のように捉えてしまいそうです。

 

あたかも必然としてあったかのような、偶然の産物としてのこの私 〜もしくは宿命

となると〝この私〟としての在り方は単に偶然の産物のように捉えて済ますわけにはいかない気もします。そしてそれはやっぱり小林秀雄の言うように、私はああもなれた、こうもなれた、しかしこのようにしかない、という宿命の観点が重要なのかもしれません。

 

【小林秀雄『小林秀雄初期文芸論集』】 

 

つまり〝この私〟が出来上がった結果は人生という道行きにおいてその時々の結果生まれた偶然の産物であるかもしれないが、それがあたかも自分の人生そのものであったかのような必然性を持って捉えること、となるでしょうか。〝私〟はなんでこうなったのかうまく説明出来ないんだけど、しかし出来上がってしまったものとしては必然として捉えるしかないんだ、ということなのかもしれません。

 

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…なんだか舌足らずな説明にしかなりませんでしたが、混乱してきそうなのでこの辺でやめておくことにします。

 

次回のお話

人生の選択としての可能性と宿命:もしくはヘーゲルにおける無限と有限 ~人間は無限なものとして可能性が開かれているが、何者かになることによって有限な存在となり、そして有限なものを積み重ねていくことで再度無限な存在となる - 日々是〆〆吟味

 

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 お話その235(No.0235)