物が国中にいきわたりますと、必要なものがなくなってきます。しかし資本主義というシステムは商品を生産し続けなければなりません。ですがもう放っておいても人は物を買いません。既に必要なものは持っているからです。
かといって座視したまま商品を生産し続けるわけにもいきません。その行き着く先は恐慌になってしまいます。となると、必要はもうないのだけど、とにかく人々に物を買ってもらわなければなりません。そういうわけで経済は生産ではなく消費を中心にして回るようになるのだそうです(多分。はっきり読んだ覚えはないかもしれない)。
でも必要もないのに物を買ってもらうためにはどうしたらいいのでしょうか。一見すると必要もない物なんて、一体誰が好き好んで買うんでしょう。以前TV番組で去年のカレンダーを売るというものをやっていましたが、普通そんないらないもの欲しくないですよね。必要もないし、意味もない気がしてきます。
そこで重要になってくるのが、いかにして人々に必要もない物を欲しくなってもらうか、ということです(ちなみに去年のカレンダーは伝説の販売員が頑張って売っていました)。そのための方法こそが、消費を中心に回る経済において必要となってくるものです。
その一つは宣伝なのですが、商品の宣伝なんて今更説明する必要がないほどです。この文章を読んでくださっている方はきっとパソコンかスマホを通して読んでくれていると思いますが、同じようにしてAmazonや楽天で商品を購入したことがあるかと思います。そしてそうしたネットショッピングをする際にはこれまた同じようにパソコンやスマホで欲しい商品の情報を探すかと思います。その時様々な商品に対する使用感や意見などを読むでしょうが、これが商品の生産者や販売者からすれば宣伝になっています。
これは自分で欲しい物を選んでいるので宣伝といっても主体的ですね。気にくわないものは見ないでいいですし、探さなければ意識にも入ってきません。しかしそれでは生産者や販売者は欲しい人が来てくれるのを待っていることにしかなりません。それでは中々買ってはくれなさそうですね。そこで宣伝も積極的に行っていきます。
そうした宣伝は、いわば広告です。ポスターやCMですが、これらは目につく場所に置かれています。ポスターなんて壁さえあればどこにでも貼れるので、ビールや化粧品など買ってくれそうな人が来そうな場所(居酒屋とか美容室)にピンポイントで宣伝することが可能です。いっそのこと無差別に宣伝することも可能で、選挙ポスターなんてそんなものかもしれませんね。
またCMといえばほんの少し前まではTVの独壇場でした。かつてのように視聴率が数十パーセントもあれば、そこで広告を打てば数千万人に宣伝することが可能です。ケタ違いな数です。そのためTVがマスメディアの中心であった時代は各企業が広告費をTVに入れました。そのため大企業が捻出した莫大な金額は視聴率を取れる番組やタレントに投下され、本来生産業ではない表現業が大会社の社長よりもお金持ちになるのでした。
考えてみれば当たり前かもしれませんね。トヨタやホンダの社長は確かに世界企業の社長ですが、そのお金は超巨大な組織の運営資金でもあり個人が勝手にしていいわけではありません(だから日産のゴーン社長の行いは犯罪になるのでしょうね)。それに比べてさんまや紳助はそんな組織運営は吉本に任せてしまえますし、吉本も売れっ子タレントを何人も抱え、規模は小さくとも新しいスターも量産できるとなれば、売れっ子の稼ぎにばかり頼らなくてもやっていけます(時々タレントの事務所トラブルが取り沙汰されますが、小さな事務所だと稼ぎ頭に代えが効かないから揉めるのでしょうね。でも、吉本は別の揉め方してましたけど)。そして超売れっ子タレントは世界企業のみならず日本の大企業が出す広告費を一身にあびるようなものですから、下手な大企業の社長よりもお金持ちになってしまうのでした(でもZOZOTOWNみたいに大きくなった会社売ったら、更なるケタ違いになるもんですね)。
その広告費がTVからネットへと移動したので、TVは脅威に感じているのかもしれませんね。表現の水準としてはTVの方が圧倒的なままだと思いますが(TV製作者がネット用に作ったものはそういえないでしょうけど)、問題は宣伝価値としてどれだけ多くの人が見るメディアか、ということであり、企業はそこを判断して広告費を投下せざるを得ないので質の問題ではないわけです。文学が斜陽の一途をたどるのはこうしたマスメディアとしての価値が相対的に著しく落ちたからかもしれません。ライトノベルでもミステリでも、元気なのは他のマスメディアへと加工が簡単なものですからね。そうした表現に対抗して言語芸術の粋を凝らした純文学では、出版メディアである小説しか無理になってしまいます。ですが最初は出版こそがマスメディアでしたので、新聞、雑誌が強く、そうした媒体で表現可能な文学が強かったのかもしれませんね。
そしてそれは現在ネットによって随分と占められてきました。人々は日常的にネットを見るので、企業は宣伝するためにはネットを無視することが出来ず広告費を出すようになりました。このブログにも数ヶ所広告が貼ってあります。それは私の書いたものが価値あると判断されたわけではなく、大勢の人が見るインターネットというマスメディアの中においては、無名の個人ですら目に触れるであろう宣伝の媒体となりうる、という判断があるからでしょう。でも、ありがたいことですね。ちゃりん、ちゃりん、とまでもいきませんが、一応広告費のおこぼれにあずからせてもらえてますものね。
こうした宣伝の方法というものは、既に私たちの周りに存在し空気のように呼吸しています。あまりに当たり前にありすぎて、むしろ意識出来ないくらいに日常的な存在です。そしておそらくは消費世界に住んでいる私たちの認識まで深く影響しているとも思われるのでした。
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う〜ん、消費の経済ってことはどこらへんで読んだんだか忘れてしまいました。私はまだ経済学もよくわかっておらず、最初の頃のものしか知りません。ですから近代経済学、もしくは新古典派などの本から教えてもらったわけではないのですが、他の違うところで読んだ覚えがちょこちょことあります。で、多分この本もそうだったんじゃなあかなぁ、と思うので載せておきます。
著者は経済学者ではなく人類学者なのですが、分野の違いを越えて経済の問題を扱ってみようと序文に書いてあったかと思います。訳者に浅田彰の名前がありますが、浅田彰によって顕在化したニューアカデミズムというムーブメントが80年代にありました。それが時丁度バブルの頃で日本の経済が消費経済へと転換され始めた時期に当たっていたのだと思います。そのためこうした消費社会についての考えがあちこちで書かれたようで、私が読んだ本にこの時代の人のものも多く、記憶に残っているのだと思います。でもなにも知らないで読んでいたものですから、誰がなにを言ってたのか、はっきり覚えていません。読み返すには多すぎるし、う〜ん、どこで誰がなにを書いていたんだろうか…ある程度でも判断できてないと覚えてもいませんね。とほほ。
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私は読んでいないのですが、広告というものが生まれた時代に、いかにして売るか、と考えて徹底した広告マンの本という話です。おそらく今でも役に立つ、この分野の古典的な位置にある本なのかもしれません。面白そうですからそのうち読んでみたいですね。
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